"責務とは行為であり結果ではない。私は結果は求めない。最後の最後の血の一滴まで立ち向かうのみ"

"責務とは行為であり結果ではない。私は結果は求めない。最後の最後の血の一滴まで立ち向かうのみ"

これは 2022年、もっともすごい映画である『RRR』に出てくる言葉で、ぼくの大好きな台詞なんですが、どう思いましたか?
(ストーリーのネタバレにはなっていないはずなので未視聴の人でも大丈夫だよね?)

「いやいやいや、逆でしょ。責務ってのは行為じゃなくて結果こそでしょ」と思った人もいるかもしれませんね。まあ、僕にもそういう時期がありましたよ(謎の上から目線)。

さて、そんなわけでですね、今日は仕事における責任。責務を果たすとは何かを考えていこうと思います。

英語だと「Responsibility」と「Accountability」とかで責任の概念が分類されているらしいんですが、日本語だと『責任』の意味の捉え方が曖昧なので、それが仕事における意思決定の弱さや推進力のなさにつながっている気がします
「responsibility」と「accountability」についてはこの記事がダントツに面白いです。

 

ダメージを負うことを他者から強制されている人は責任をとれない

「責任を負わされるなんてイヤですよ」なんて言っている人を見たことはないでしょうか。ぼくはあります。

この発言をしている人ってどういう立場で、どんな責任を負っているのか考えてみるとなかなか興味深い(?)と思うんですよ。

責任を「負わされる」という発言からは自らはコントロールできないことが伺われます。不確実要素や失敗可能性がある業務に対して、それが成功しなかったとき、何らかの「責任を負わされる」と思っての発言なのでしょう。

「責任を負わされる」の中身は報酬が下がるとか給与に影響するマイナス査定みたいな金銭的なものかもしれませんし、社会的な立場が悪くなったり何かを辞めさせられたりするのかもしれません。はたまた、怒られるだとか周囲の人からダメなやつと思われるとかみたいな心理的に辛いストレスがかかるということを「責任を負わされる」と言っているんだと思われます。

それって、自分にコントロールできないようなことで結果ダメだったときに何らか

ダメージを負わされることを他者から強制されているんだと思うんですけど、それって責任とれる人なんですかね?そしてそのダメージを負えば上手くいかなかったことの責任をとったことになるんでしょうか?

ぼくはそれでは責任は負えていないし、責任もとれていないと思うのですが「いやいや、責任ってそういうもんでしょう。結果が出せない人が相応のダメージを負うことが責任なんですよ」って思ってる人も多いっぽいのですよね。

 

仕事における『責任』を「結果がでないときにダメージを負う係」か何かだと思っているのではないかね

例えば、何かの目標があったとします。売上目標でもいいですし、期日までにプロジェクトを完了させるのでもいいでしょう。そして、それが不確実な要素が多くて失敗する可能性が高いものだったとします。

何も工夫せずに取り組んだらほぼ失敗するような目標。

それなのに工夫や努力が必要だということも考えられず、何をしたら良いのか分からない人が責任者だとしたら、その人は「責任をとる」ことはできるでしょうか。

そして、工夫も努力もできないまま期限がきたとき、その名ばかりの責任者が「目標達成できませんでした。ごめんなさい」と謝罪して給与が下がりさえすれば、その人は「責任をとった」ことになるのでしょうか。

 

ここまで極端な例にしたら「結果が出せない人が相応のダメージを負うことが責任なんですよ」と考えていた人も「結果のために工夫や努力をする責任を果たせよ」と思うのではないでしょうか。

"責務とは行為であり結果ではない。私は結果は求めない。最後の最後の血の一滴まで立ち向かうのみ"

RRRの台詞に戻ります。さすがに仕事で「最後の最後の血の一滴まで立ち向かう」ことはないでしょうが、少なくとも仕事における責務とは「行為として徹底すること」であって「結果がでないときにダメージを負う係」になることではないとぼくは考えます。

これを Responsibility っていうらしいんですけど、ただ言葉を英語に置き換えるだけだと「実行する責任」ってだけの受け取られ方になって「最後の最後まで立ち向かって工夫や努力を徹底に徹底し続ける」こととは受け取られにくい場合もあるかなあと感じています。単に英語にするんじゃなく、責務をまっとうするってのはどういうことかの概念を考えて共有する必要があるんじゃないかなあと。
(あ、実行するだけで責任範囲を果たしていることになる場合もあるのは理解してます。はい。)

 

結果に対して責任を負う、なんてのは多くの場合で意味がないことなのに重要視され過ぎ。

「責任を負わされる」という人がいるように『責任とは結果がでないときに何かする係になることであり、それこそが責任である』と考えている人は結構多いんじゃないかなと思います。

他の人に業務を任せる立場にいる人すら、本当は「行為として徹底すること」を任せたいはずなのに「結果がでないときにダメージを負う係になること」を任せていると勘違いしている場合があるのではないでしょうか。それこそ「責務ってのは行為じゃなくて結果こそでしょ」と考えてしまう人がいるように。

冒頭に書いた通り、こんな感じで『責任』の意味が人によって曖昧なんで、それが仕事における意思決定の弱さや推進力のなさにつながっている気がするんですよね。

 

もちろん、「結果責任」っていうのは必要です。

でも、その「結果責任」とやらを重要視し過ぎなのではないかと思うのです。

ぼくが若いころ働いていた会社で偉い人が「俺が責任をとるから」って言ったことがあって、それに対して「それって上手くいかないときに偉い人さんが何をしたら責任とったことになるって思って言ってますか?」って質問をしたら偉い人は黙ってしまったのですね。これは若気の至りで悪いことをしたと反省しています。

反省しているのですが、実際のところその偉い人ができることなんて「上手くいかなくても実行者を責めない、実行者の不利になるような評価をせず、それでやってくれと言った自分が悪かったと考える」くらいしかできることはなかったと思うのです。

経営者の場合は売上や利益という結果を見て苦しむことが「責任をとる」ことになる場合もありますが、そうだとしても最終的に出てきた結果に対してできることなんて「こんな結果になったのは自分の采配が悪かったからだな」と反省して次の手を考えるくらいしかないですよね。

つまり「結果責任」っていうのは、事象が起きた後の責任なので、反省して次の手を考えるくらいしかできることがないんですよね。結果責任を負う価値のある状況もあるのかもしれませんが、少なくとも仕事においてほとんどの場合は『結果の責任をとる必要』があるというだけであって『責任とったことで何か起きるわけではない』ことが多いと思います。

責任をとる人が必要なだけで挽回できるわけではない。なのに結果に対して責任を負うということが重要視され過ぎていて、これが仕事における意思決定の弱さや推進力のなさにつながっているんじゃないかと(この記事でこれ書くの3回目)

 

"責務とは行為であり結果ではない。私は結果は求めない。最後の最後の血の一滴まで立ち向かうのみ"

「私は結果は求めない」は、結果が出なくても良いという意味ではなく、出た結果に対しての責任をとるのではなく、行為を徹底しないと責務は果たせないという意味で言ってるんだと思います。

ちなみにこれヒンドゥーの叙事詩からの台詞らしいんですよね。このツイートを見るとこの台詞の意味もわかるはず。(良いトリビアありがとうございます!)

 

結果責任だけを重視し過ぎると『行為を徹底する責任』が放棄されちゃうことすらあるように思います。

業務を任せる側なら「結果がでないときに何かする係になること」だけを課して任せた気持ちになってはいけないのでしょうし、任される側ならば「行為を徹底すること」で責務を果たす方が良いと思います。

ぼくは自分の関わる仕事においてはそういう風に『責任』を説明するようにしたいなあと思っています。できていないこともありますけど……

 

と、いうわけで「結果がでないときにどのくらい酷い目に遭うか」だけが『責任の重さ』ではないはずで、最後の最後まで行為を徹底する難しさこそ重視されるべき『責任の重さ』なんじゃないですかね、というお話でした。

 

それはそれとしてRRRはいいぞ。

rrr-movie.jp