誰かの「普通」が多くの人を助けるんじゃないかな

先日、ぼくが編集長をしているAgendというメディアで、HRスペシャリストの林真理子さんとお話した記事を公開した。

これからのライフプランと仕事について悩んでる若手向けとしても、そういった若手をサポートしなくてはならないマネジメント向けとしても良い記事になったんじゃないかなーと思っている。林さんありがとうありがとう。

agend.jp

色々な感想をもらったのだけれど、「林さんめちゃいい。理論に余白があってとてもいい」と、とあるSNSでもらった感想がうれしかった。

林さんの考え方や、伝えたいこと、人の良さが伝わって、編集長としてはうれしい気持ちになる。この記事を読んで「理論に余白がある」と受け取れるのはその読者に読み解く力があるからだろうけど。

 

一方この記事が出たあとに、お話をした林さんご自身が個人ブログで『「普通すぎる」とか「凡庸すぎる」とかで終わっちゃうんじゃないか』と心配したと書いていた。

hysmrk.cocolog-nifty.com

やはり「普通に大事なこと」を現場仕事ではなくメディア記事のような形で出力しようとすると、どうしてもエッセンスが抽象化されるわけで、「抽象化した普通のこと」の語りって、どうしても「凡庸」と紙一重になってしまう。

「普通のことすぎる!」というお叱りの言葉もあろうかとは思いますが、普通を具現化する仕事こそ大事だし難しいし、現場の各人の腕次第だしという思いを詰め込んだということで堪忍して。

なにを言ってるんだ。
この記事に書かれているようなことが普通だと思えるやつは、その時点でまあまあの手練だと思うぞ……と思ったが、林さんに限らず仕事のデキるひとの話を聞きにいくと、だいたいみんな「自分のやってることを普通だと勘違いしてるやべーやつ」なんですよ。君たちの普通は世の中の普通じゃあねえから。

学びのある話や鋭い視点・観点を褒めると、「いや……誰でもできる普通のことをしているだけだが?」とか、なろう小説・異世界転生アニメのテンプレみたいな返答をしてきやがりますのです。

そのたびに、「あなたがたの普通が"世の中でも普通"だったら、社会はもっと生きやすいわ!!!」とDisり風味に褒めてるんですけど、納得してもらったことはない。異常者はこれだからこまる。

 

「普通のことをしているだけ」という人がまったくわからんってことはないんだが

だいたい、この手のひとたちは自分の思考を「筋道通りに考えていれば出てくる考え方」だと思っている。一定の論理的な思考力があれば誰でも到達できる考え方で、特別なセンスや専門的な技能を必要ない「普通のこと」だというわけですよね。

そこに出てくる「一定の論理的な思考力」があったら、天才ではないかもしれないけど凡庸でもないということに気づいて欲しいのだけれど、まあ天才じゃなくてもできることだという言いたいことはわかる。普通のレベルがおかしいんよ、とは思うけど。

 

あるひとにとっての"普通"が「普通だからこそ」多くの人を助けたりしちゃうわけよ。

超特殊な、オンリーワン的な凄さのある人の成功談って、読み物としては面白いけど再現性もないし、真似もできない。

それは多くの人を助けたりはしない、とぼくは思う。

多くの人を助ける考え方や視点ってのは、誰かにとっての「普通」なんですよ。真似もできるし、天才じゃなくても同じ観点を理解することができる。

普通じゃないひとの「普通」は、コンテンツ・読み物としてじゅうぶんに面白いし、面白いって時点で他の人にとっては普通じゃないというギャップがあるんですよね。

そして多くの人の役に立つ。
そういう「多くのひとに必要な普通」が広まることって、とても良いことなんじゃないかな。

あなたにとって普通でも、みんながやっていないことだったり、多くの人に足りていない観点なんであれば「こんな普通のこと言ってもなあ」なんて言わずに広めてほしい。

きっと、これを読んでいるあなたの「普通」も多くの人を助ける力を持っていると思うよ。

 


あと、どうでもいいけど「普通」の定義を考えると面白いよね。
いずれそういうブログを書こうかな。