褒められて「あわわわ、わたくしめはそのような価値ある人間ではないのです。おやめください…おやめくだ…」ってなっても口にしない方がいいよ。

人に褒められたらネガティブな反応を返す人っていますよね。

A 「すごいね」

B 「自分なんかクソですよ、あはは。」

A 「そんなことないよ」

B 「いやいや、いかに自分がクソかっていうとですね……くどくど…」

なんだコイツめんどくせえ。

……まあ、これ以前の僕のことなんだけどな!(笑)

適度な謙遜とか、できないことを押し付けられないために期待値を下げてるとかならいいんだけど、こういうやりとりって大抵は「卑屈な心情の吐露」でしかないんですよね。卑屈ダメゼッタイ。

今日は、こういう卑屈さを口にするのは勇気を出して踏みとどまった方がいいって話を書きます。

自分なんてダメな奴でうんこ以下なんだと思うのは仕方ないけど、応援してくれたり評価してくれる人に向かって「自分なんかクソですよ、あはは」みたいなこと言ってしまうのだけは止めた方がいいと思うんだよね。そこだけは我慢した方がいい。

自分のことをいかにクソだと思っていても、自分を評価してくれた人に対して自己肯定感の低さを披露するという心の泥沼に相手を引きずり込むようなことをする必要はないんだよね。
まあ、これって自己肯定感の低い自分を承認してほしいという防衛的な反応なんでしょうけど。卑屈すぎるw

卑屈な謙遜をしてしまうのは、人に褒められても「あわわわわ、褒めないで……わたくしめはそのような価値のある人間ではないのです。おやめください!」というような気持ちになってしまって、とっさに冒頭のようなやりとりをしてしまう。

そして、そういうこと口にしているときって美徳的な謙遜と区別がついていなくてダメなことだとは思っていないんじゃないでしょうか。

まあ、いかに自分がクソでも褒めてくれた人まで卑屈沼に引きずり込むことはないわな。
冒頭やりとりを見返してみるとわかると思うんだけど、褒めてくれる人にもなぜか「自分がクソである」ってことを肯定してもらおうと説明まではじめちゃう。いらないだろ、それ。

謙遜と自己肯定感の低さを披露することは違う。
自己肯定感の低さを披露している本人は「本当に自分はクソだし、本当のことを言って何が悪い」みたいになっているんだろうけど、「本当のこと」を言ってるわけではなくて自己肯定感の低さからくる卑屈な心情の吐露でしかない。

他者が褒めてくれたり評価してくれた・すごいと思ってくれた「事実」を受け止められない、「本当のこと」を受け止められていないのはどちらなのでしょうか。

繰り返しになってしまいますが、自己肯定感の低さを止めるのは難しいのであえてそこは自由にすればいいと思います。(止められるなら止めた方がいいけどさ)

自分なんてダメな奴でうんこ以下なんだと思うのは仕方ないし、自由だし、僕も(今でも)年中そう思ってるけど、応援してくれたり評価してくれる人に向かって「自分なんかクソですよ、あはは」みたいなこと言って「自己肯定感の低さを肯定してもらいたい」なんていう卑屈な自己肯定の泥沼に相手を引きずりこむのだけは我慢して踏ん張らないといけないんじゃないかな。

そんな自分を褒めたり評価してくれた人に対して「ありがとう」って言うくらいでいいんだよね。
ずっと評価され続けるような自分で居続けないといけないわけじゃなくて。

僕も毎回「あわわわわ、褒めないで……わたくしめはそのような価値のある人間ではないのです。おやめください!おやめください!!!」って心の中で叫んでいるけど、このクソのような卑屈さに相手を引きずりこむような失礼なことをしないように勇気を振り絞って「ありがとうございます」って言ってますです。

冒頭のめんどくさい奴は、少し前の僕のことなんだけど今は頑張って勇気を振り絞らないと褒めてくれた人を卑屈沼に引きずり込んでしまう…それだけは避けねば…うううう…と勇気を振り絞って「ありがとうございます」って言ってます。書いてみたら十分めんどくさい奴だな、僕は(笑)

さて、今日もまだ仕事です。勇気を振り絞って踏ん張ろうw

レビューしたら3000円くれる飲食店があったんだけど、情報の重み付けって本当に難しい。

今日、食事をした店のメニューに堂々と「食べログに料理写真10枚以上、300文字以上のレビューを投稿したら3000円分の金券を送ります」と書いてあって目を疑った。

実際にその店で食事をした人にレビューをうながしているので、お店の人からしたらステマにあたるという認識ではないのだろう。対価を支払ってレビューを依頼しているんだけど。

はたまた、ステマではないけれど、以前にモール的なECサイトで買い物をした際に「ショップを5点満点の星で評価してください」というのがあった。星5つが「最高」で星3つは「普通」と書いてあった。

まあ、トラブルもなく買い物できたから普通かな…と思って星3つをつけたところ、出店者から「どうして5点ではないのか、何が不満なのか」という問い合わせのメールが何度か来た。
内容的には星5つじゃないなら、何か不満があったのではないかという感じで。

これはある程度仕方なくて「星3つが普通と書いてあるから3つ」と「よほどクソじゃなければ5つ星が普通」という異なる評価軸が混ざってしまうものだと思うけど、ショップからは必死さが伝わってきた。

そのモールは楽天ではないしメルカリみたいなCtoCでもないけど、5つ星を集めないとその後の売上に関わるんだろう。評価の仕組み上で仕方ないんだろうけれど……と微妙な気持ちになりつつ僕は5つ星につけなおした。

インターネット上の情報サービスは、「評価」がサービスの重要な核となっていることが多い。

Googleは世界で一番大量情報に優先順位をつけることに特化した企業だと思うけど、人間が検索した言葉に対してできるだけ適切に「必要とされているであろう情報」に重み付けをして並べている。

飲食店やECサイトの場合は、Webページの重み付けみたいにインターネット上にある要素だけではお店を探している人の意図を満たすことができないから、必然的に利用者からのフィードバックをもとに重み付けをすることになる。

食べログの場合は、単なる「集まった点数を積み上げてからの平均」ではなく新規ユーザーなどの評価を下げるなど「ユーザーの信頼度と評価でバランスさせる加重平均」をとっていることを売りにしていて、なるほど考えているんだなあと思う反面、飲食店側からは一部のユーザーの評価で結果が出やすいのはおかしいとか、美味しいという評価が一部のユーザーに偏るのはおかしいなんて話も出ていて難しいものです。
(ここらへんのアンチ食べログ勢も色々と香ばしいところがあるのですが、それは別の話なので今回は置いておきます)

冒頭に書いたような飲食店の場合は、お金を払って良い評価の数が増えやすくしている(悪い評価をする人は、次回の食事代が無料になるかどうかに無関係だから、3000円もらえることがキッカケで評価した場合は当然に良い評価に偏る)。

レビューを促進することはお店側からは合理的な努力に見えるかもれないけど、お金を払って他の店舗よりも高評価を受けやすい操作をしているわけだよね。
実際に3000円のもらってレビューを書いている人がどのくらいいるのかは分からないけど、それなりにはいそうな雰囲気はあった。

飲食やECモールの場合は、お店を使ったことがある人のフィードバック(レビュー)以外での評価だと、キュレーターからのリコメンドによる評価軸だとかもあるにはあるけれど、やはり2016年末現在では多くのお店に重み付けをするのだとしたらフィードバックを基にした評価軸に落ち着くは仕方がない。

以前もそんなようなことを書いたけれど、これは人工知能や大規模データの分散処理が発達して現在とは違う評価軸での計算が可能になったとしても、基になる情報がなかったり、方向性を誤っていたら検索者が欲しているような重み付けをした情報にすることはできないし。

冒頭の飲食店にしてみたら悪意はないんだと思う。
レビューがお店の売上に影響するから良いレビューが集まるように投稿を促したということなんだろうけど、評価の重み付けは操作されたものになってしまう。

あ、このお店の話に限れば是非を問うほどの操作では無いようにも思うし、それを叩きたいわけではないです。
評価とか重み付けって難しいなあという話をしたいだけ。

そういえば今年の3月にInstagram有名人の「Googleは使わない、SEO対策されているから」という発言が一部で話題になりましたね。SNSに投稿されている情報は(仮にそれが操作されていないとしたら)単に未加工な情報であるわけで、プラットフォーマーが汎用的な評価軸で重み付けしたものを嫌うのであれば、今度は写真などから得られる情報を自分の感性で評価する必要が出てくるだけでしかなくてそれがプラットフォーマーの汎用的な評価軸より優れているかどうかはその時々によるだろう(あながち間違ってもいないけど、評価軸が違うというだけの話かと)。

結局のところ、何かを評価するのに完全な方法というのは今のところ発明されていないってだけの話でしかないけど、利用したことがある人のフィードバックが力を持っちゃったから冒頭のようなことが起きちゃうんですよね。
楽天にも一時期「レビュー書いてくれるなら送料無料」みたいな店が増えたけど、同じ構造。

僕から特に何か「こうあるべき」ということが言えるわけじゃないんだけど、Gooogleみたいに世界最高峰レベルで重み付けが高度化されるのを待つか、評価軸が異なる複数のサービスから自分に合ったものを選べるようにでもならないと解決しないんだよね。そもそも解決するようなタイプの問題じゃないか。

オチは特にない。すまんぬ。

全体は部分の総和以上のなにかであって、部分と全体を再帰しながら抽象化しないとわけわからなくなるけど、そもそも既にこのブログタイトルが意味不明になってるな。

先に書いておきますが、今日のブログはネタがなくて苦し紛れに書きました。もうまとまってないし、なに言いたいんだよお前は的な内容になっております。年内に終えないといけない仕事が終わってない中で更新をしなくてはいけないという追い込まれから生まれた謎の雑文ですのでスルーしていただければ幸いです。という逃げの前置きはここまでにしておきます。言っとくけど感想はいらねえぜ。

科学とか学問の世界のひとが「複雑なものは複雑なまま考える」ということをよく言うような気がします。

この言葉の初出というか出典を知らないのですが、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである 」から遡るみたいな話もあるようですね。知らんけど。

僕は無教養な人間であるものの、ここらへんの考え方が好きなんですね。
企業でも、人間でも、ちょっとしたシステムと言えるようなモノゴトのほとんどは複雑にできていて、数え切れないくらいの要素で組み立てられている。

先日も雇用とか働き方について書いた時も、あんまり単純化しないで色々な立場の人の色々な考え方をバランスさせるには根本的な問題に取り組みつつ改善スピードを緩やかにせざるを得ないみたいなことを書きましたけれど、それもこれと同じ話でして、何らかの複雑の要素が組み合わされたシステムは単純な(一面的な)ものの見方をぶつけ合っても改善は難しいなあと。

部分の研究が無駄というわけではなく、全体と部分の関係を再帰しながら抽象的に理解していく必要があるのかなと思います。なに言ってるのかわけわかんないですね。僕も雰囲気で書いてるのでよく分かってないけどね(ぉぃ)

社会システムだけじゃなくて、人間のちょっとした心理だったり、ビジネスなら業界構造だったり。
購買に至る顧客の動きなんかもそうですが、部分的に理解しようとしても複雑なものの一面でしかないから、部分的な理解だけではなくその部分が全体にどのような影響をしているのかの理解もしていかないといけないって話。もうほんと説明できてねえなこれ。

こういうことを言うと「ものごとをシンプルに考えることは大切」という反論があったりしそうですが、ものごとをシンプルに考えるには非常に複雑な要素を理解する必要があるのですね。さっきも書いたけど全体と部分の関係を再帰しながら抽象化していくみたいな思考法がいいのかなと(これ何って言うんでしたっけ。なんか名前あるよね、たぶん)

つまり「ものごとを的確かつシンプルに捉える」っていうことは「複雑なものは複雑なまま考える」と同時に行う必要があって、いわば抽象化が必要なんであって単純化してはいけないんだと思います。説明になってないけど。
複雑なものごとを単純に考えるということではなく、本質的な要素や概念に置き換えることですから、複雑なものごとを抽象化するには、そのものごとに対して深い知識や思考が必要ということになります。

ビジネス的な課題だとか社会問題とかを考えるときに、「複雑なものを複雑なまま考え」られているか、はたまた抽象化して捉えるべきときに思考停止して単純化してしまっていないかを考える必要があるってことです。
僕もできているか怪しいけど、姿勢としてはそうでありたいなーと。

なんか意味不明のことを書いてしまった。
毎日ブログ更新するために寝不足だからだな…。

ちょっとこれ心と思考力に余裕があるときにもう改めて書き直すわ。正直、すまんかった。来年に書く。来年になってから。

まあ、勢いで一応はこのまま最後まで書いちゃうけど、抽象化とか複雑なものごとを理解するとか、大昔の人から延々と同じことを言ってるわけで、解決するための思考方法はこれまた大昔から哲学者やら思想家が解決策を出してるから素人が考える必要ないはずなんだよね。たぶん。

まあ数千年前に解決方法が提示されていても、人類はいまだに同じことを繰り返してしまってやーねもう、って思ったってだけの話なんですよ(なんのこっちゃ)。

エイベックス松浦さんのブログを読んで、改めて「理想的な働き方の多様性」を実現するのは(法律としては)今のところ無理ゲーと思ったりした話

エイベックスが労働時間の是正勧告を受けた件で社長の松浦勝人さんがブログで「法律が現状と全く合っていない」と労基法を批判したみたいですね。
僕がネットの反応を眺めた感じでは労基署を支持する声のが多いような感じはありますが…。

まあ、労基署を支持する声のが多いのは仕方ないですよね。
エイベックス松浦さんも「現時点の決まりだからもちろん真摯に受け止め対応はしている。」とした上での意見として言っているので、まあどちらも分からないでもない。

先に書いておきますが、僕は自分なりに「こうしたらいい」という意見を持ち合わせていません。フワッとした意見にもならない感想くらいしか書くことができませんのでご容赦を。
この件はとても難しいことだと感じていますし、短絡的に答えを出すべきことでもないと思います。

松浦さんのブログも読んだけど、特に具体策としてあるべき姿が示されているわけではなくて、業界ごとの事情や個人の考え方があるのだから「改正が働き方の多様性に対応するものであってほしいと願う」という書き方をしている。
それは僕もそう思うけど、やはり具体策があるわけじゃないなーと。
なお、松浦さんのブログはポジショントークっぽいところが強くて、この言い方だと労基署を支持する(松浦さんに反発する)声が強まっちゃうのもわかる。

僕もサラリーマン時代に(ここに時間や条件を書いたら問題になりそうなくらい)アホかっていうほど仕事に時間を使っていたことがあって、人より時間を使うことで経験値を沢山得たり結果を出せたりしたから、「もし働くことを禁止されてたら今の僕はないし、仕事つまらなかっただろうなあ」と思うので、松浦さんがブログで言いたいことはわかるんだけどポジショントークっぽく書いてしまうと多くの人には受け入れられ難くなっちゃうだろうからもう少し慎重に意見表明しても良かったのでは、と思うところであります。

業界ごとの事情や個人の考え方があるのだから多様性に対応できる法律に改正して欲しい。

たぶん、この考え方に反対する人は少ないと思うんですよ。
考え方自体は良いことかと。

ただ、雇用側と働く人のパワーバランスを考えて「雇用側が、働く人から搾取しづらい仕組みにする」という労基法の大切な考え方を維持して、多様性を確保できる具体的なシステムを提案できている人って僕は見たことないんですよね。

確かに100年前に比べれば、いや50年前と比べても――――その時代に生きたことないから恐らくでしかないけれど――――2010年代に働く人たちの働き方を選べる自由度は高いとは思う。

雇用側に従うしかなかった時代に比べれば、働く人たちの自由度は比較的高く(あくまでも比較的、ね)なっているだろうとは思う。

ここまで自由度が高まったのだから、「搾取されていると感じたら仕事を辞めて他の仕事をすればいい」とか「自由意志で働く量を決められるべきである」と考える人が出てくることも理解できないこともない。理解できなくもないどころか、めっちゃわかる。わかる。ワカルヨー

最近、テレビでもそういう発言をした経営者がいたみたいでツイッターで話題にもなっていた。(その方がツイッターでしている発言もTogetterにまとめられていたのは見た)

その経営者の人が言う「搾取されていると感じたら仕事を辞めて他の仕事をすればいい」は分かる。
その後に続く「だから現状の法律はおかしい」も、うーん?…とは思うけど、まあ分からないでもない。賛同ではなくて、君たちの言いたいことは分かるよくらいの意味で。

賛同ではない、と書いたのはそんな簡単に仕事を辞めて他の仕事を選ぶなんてできないんじゃないかと思うので。いや本当に仕事を選ばないなら、そりゃ仕事はあるかもしれないよ。

それって「苦役が嫌なら、やりたくない仕事でも何でも楽な仕事をすればいいじゃない」ってことになっちゃう。「パンがなければケーキを」的な感じしませんか。多様性ってそういうことじゃないでしょう。選択肢に自由度が低すぎるし、自由度が低い人たち無視して多様性なんて言えない。

やっぱり、そんな簡単にいかない話だと思うんですよね。

「職種は良かったけど職場(会社)はヤバいところだった」とか「転職したら今ほど給与はみこめない」みたいな場合に、条件を変えずに会社だけ変えるとかはそう簡単ではないと思うんですよ。

働く人たちの自由度が高まっているって言っても「その程度」でしかない。

優秀・有能な人たちの自由度はものすごく高まる一方で、そこまで職場が自由に選べない人たちも沢山いるのだから法律やその運用が保守的になのは当然なのではないかと思います。

その上で、多様性を高めるにはどうするかって話になるのかなと思うんですよね。
前置き通り、「こうあるべき」という意見は僕も持ち合わせてはいませんが、まずもって自由に選べない人たちを減らしきったと言えるところまで減らしてからでないと社会システムで多様性を担保するなんてのは難しいんじゃないかなあとは思います。

(いまも議論され、改正が進んだりしているように)ゆっくりゆっくり改善していくことになるので社会に不満が出続けるんだろうけど、それはそれで仕方ないのかもしれませんね。
規制というブレーキが、働き方の実態とでバランスがとれないまま、「ブレーキが強すぎるぞ」「アクセル踏みすぎると落ちるやつがいるだろ」とヨレヨレと左右にブレながら少しづつ前に進んでいって、10年か15年くらいして振り返ってみるとたら少し良くなっている、そんな風にしかできないものなのではないかなあ、社会なんて。そんな気がしています

MTGのときペットボトルで飲み物を出して、出された方はペットボトルの残りを持ち帰るのって

今日は打ち合わせだらけの日で、横浜で打ち合わせして渋谷いったり、渋谷から横浜いったり、またまた都内にいって横浜に行ってと移動三昧だったのですが、行く先々でペットボトルの水かお茶が出てくるんで、ふと気になってこんなツイートをしました。

前々から僕は「ソシャゲ・ケータイ系の企業におけるオリジナルラベルのミネラルウォーターが出てくる率は異常」と繰り返しツイートしているのですがリプライは少ないです。でも今日はこんな内容だったからか数人の方から反応をもらえて業種や企業規模関係なくペットボトル出てくる企業増えた印象がある的なことを教えてもらった。

言われてみればそりゃそうか。

しかし、今更ですけど、ペットボトルで出すのがもっと定着したら良いとのになと思います。
荷物になるなーと思うときもあるにはあるし、ペットボトルがゴミになるという問題はあれど、残したりコーヒー一気飲みして帰る文化のが良いとも思えないし。

MTG参加者が自分で用意して配るから、お茶汲みもMTG後の片付けも人をとられることがないし。
来客が少ない会社ならそうでもないけど、それなりに来客あるならお茶汲みとか片付けの無駄がなくなりますやね

勝手な感覚だけど、打ち合わせ相手の会社の偉い人が自分でコーヒーを運んできてくださったりすると「うわああああ、わたくしめのような人間に貴方様のような高貴な方なんてことおおおおおお」って思うじゃないですか。普通思うよね?僕だけ?

かといって、社員さんのお手を煩わせるのが良いのかというとそんなことないですし。
ペットボトルなら会社の偉い人が運んできても違和感ないから印象的にも負担なくて良いなとw

来社したお客様にはちゃんとお茶を淹れてこそだとか、こだわりがあるのも悪いことではないと思うから「お茶汲み文化は氏ねええええ撲滅ッ撲滅うううう」とかマサカリを振り回すのもどうかとは思うけど、とはいえ、ほとんどの会社にはそんなこだわりないわけだからペットボトルでいいよね。(あ、でもBtoCだとお茶でのおもてなしにこだわる場合もあるにはあるな)

提供側からすると寒い時期に温かい飲み物を出したいという気持ちも働きそうだけど、12月にペットボトル出されても僕は違和感ないな。そこらへんの一般的な感覚わからんけども。

あと、僕のツイートにリプライしてくれた中に「昔の日本だと水を出すのが失礼だったのでは」というのがあって、たしかにそういうのありそう!なんて思いました。

しっかし、なんでソシャゲ・ケータイ系の企業におけるオリジナルラベルのミネラルウォーターが出てくる率はあんなに高いんでしょうね。そこらへんの業界に近くない人にはまったくわからない話になっちゃったけど、ホントにそうなんだよ。誰か事情や歴史を知っていたら教えてください。そんな人いないか。

誰かそこらへんの歴史を知っていたら教えてくださいませ。

なお、オチは特にないけど、こういうことです。

「ひとりで登れない人間」である僕らで組んだパーティーでも戦えるんだよ、たぶんね。

「君の名は。」や「電車男」なんかを手掛けた映画プロデューサー川村元気さんのインタビュー記事を読んだら、こんな言葉がありました。

「難易度の高い山に挑むときの最強のパーティーは、一人ひとりがソロクライマーとして登れる人間が集まったパーティーだ」

「勝算のない所から始めます」 川村元気のヒットの見つけ方より引用

作家の沢木耕太郎さん言葉だそうです。
これ自体はリンク先の記事の本題というわけではないですしインタビューは面白いのでそれはそれとして読んでいただくとして、今日はこの言葉にひっかけてパーティーを組むことについてブログを書こうかなと思います。

僕もちょうど今STARtedで取り組んでいるプロジェクトがあって、参加してもらっているメンバーは各専門分野のプロ中のプロ。分野は違えどアスリートと言っても良いようなレベルの人たちをそろえて進めています。

RPGで言えば、戦士や魔法使いや僧侶みたいに役割や得意分野は違うんだけど、独りで旅に出られるレベルとスキルを持っている人たち――"一人ひとりがソロクライマーとして「登れる」人間が集まったパーティー"――といえます。

あ、いや、実際のところ、そのプロジェクトで僕だけは「登れる」人間じゃないんだけど、それは後述しますね。

正直、一緒に仕事をしていて気持ちが良いです。プロジェクト自体は超ハードな難題に取り組んでるんだけど、メンバーがすごいから仕事のしやすさはハンパない。

自分の役割で与えられた役割を果たして最高のパフォーマンスを出すことに集中し、自分の領域で他のメンバーが仕事しやすく配慮をすることも「自分の役割」の中に組み込まれている。

いかにも"ソロクライマーとして「登れる」人"たちといえる仕事の仕方だなーと感心するばかりです。
普通なら、自分の役割を果たせるかどうかも分からないし、他のメンバーが仕事しやすく配慮するのは余裕があったらすることで自分の役割ではないという風になるなあと。

そう。
自分の役割を果たせるかどうかも分からないし、他のメンバーが仕事しやすく配慮することも余裕があったらするけれど自分の役割ではないという風になるのって「普通」ですよね。

「難易度の高い山に挑むときの最強のパーティーは、一人ひとりがソロクライマーとして登れる人間が集まったパーティー」だけれど、そんな最強のパーティーを組めないことの方が普通なんですよね。良い悪いではなく、多数であるという意味で。

いま大小を問わずイケてると言われている企業って、人材採用に手間とお金をかけているように僕には見えるんですけど、それって"ソロクライマーとして「登れる」人"の個々の力が欲しいのはもちろん、"ソロクライマーとして「登れる」人"たちとパーティを組むことで得られるストレス低減性とか、働いていて得られる気持ち良さを「難易度の高い山に挑む」ために重要視しているんでしょうね、多分。

イケているパーティを組むことができる企業とそうでないところの力の差は広まっているのかもしれないし、たまたま良い人が来るのを待つことになる採用戦略しか持っていないとキツくなるような気がする。

おっと、採用の話にブレてしまった。
今日はそんな話をしたいんじゃないんだ。ここからが言いたいこと本番。

自分の役割を果たすために周囲からのサポートを欲するし、自分のやりたい範囲でのみ周囲へのサポートを行うから配慮やサポートは自分の役割として組み込まれていない。

更に悪く言ってしまえば、自分の役割を果たすために周囲からのサポートを欲っする"登れない"レベルなのに、自分は"ソロクライマーとして登れる人間"だと自負していたりもすることすらある――

文章にすると悲しい感じになるけれど、そういう"ソロクライマーとしては登れない"たちが集まっているのが普通のパーティーだと思うんですよ。繰り返してしまうけど、良いとか悪いとかじゃなく、それが多数という意味で。

とても残念なことに僕という人間なんて、コードも書けない、デザインもできない、STARtedやってるけど服のこと知らないし、何かの専門家というわけでもなく、ディレクターとしてのきめ細やかさや周囲へ配慮する力も持っていない、専門性は低い上に"ソロクライマーとして登れない"というタイプ。あえて言えば自分が何の専門性も持っていないと自覚しているのがマシな程度で、RPGだったらずっと馬車の中か酒場に置いておかれるやつだ(これまた文章にすると悲しい感じになるな…)。

このブログ記事の前半で書いたようなプロジェクト単位では「最強パーティー」にたまたま紛れ込むことはあるのだけれど、今までの社会人人生で自分が普段所属する企業・チームは全て「普通のバーティー」だった。まあ、それが普通だしね。

思い返してみれば僕は、ここ15年くらい"ソロクライマーとしては登れない"僕らで組んだパーティーで戦い抜く方法ばかり考えていたような気がする。

突然またRPGの話をしてしまうんだけど、僕は低レベルのパーティーでゲームクリアをするのが大好き(現実の自分を投影しているのかなw)。

もう何レベルでクリアしたか忘れたし古いゲームで申し訳ないけど、ファイナルファンタジー8をプレイしたときにはラスボス戦で頭を使って全滅だけは避け続け、回復しながらチクチクチクチクと細かいダメージを与える攻撃をしまくって、なんとその1回の戦闘だけに8時間以上もかけてエンディングにたどり着いた。

普通の敵から攻撃されただけで簡単かつ一撃で死ぬレベルの人材しかいないパーティであったので、ボス戦以外では戦うことをせず逃げ回ってボスまで辿り着いて、時間と頭を使って倒すスタイルでなんとかクリアしたのでした。

あ、さすがに現実はそんなに低レベルなパーティーではないですからね。
僕と仕事してるチームメンバーが低レベルって意味ではないので悪しからず…。

僕が言いたいのは"ソロクライマーとしては登れない"普通のひとである僕らで組んだパーティーでだって戦えるんだってこと。それは決して良いことでも褒められたことでもないんし、レベル99で組んだ「最強パーティー」を組めるように努力できる環境があるならそうした方が良いと思うけれど。

でも、そうでなきゃラスボスと戦い抜けないなんてことはないんだよ。普通に挑んだら勝てないのは当たり前だけど、低レベルのパーティーが工夫で倒せたように知恵を絞れば戦えないわけでもない。それはゲームだけじゃなく現実でもそうなんだと思うよ。たぶんね。

追記: "登れない"僕らで組んだパーティーで戦い抜く具体策は、また落ち着いてから書きたいと思いますので本日はポエム的な何かのみですがご容赦をw

何かを責められた時は、耐えるのでもなく反撃をするでもない姿勢が自分の身を守ると思うんだよね。

一昨日、近所にできたカフェでランチとお茶しながらPC開いて作業をさせてもらっていた。

僕のノートPCはもう電池が古くて、電源を繋がずに作業していると1時間くらいで落ちちゃうんだけど、そこのカフェは電源もあってありがたいのです。

このカフェ、分煙にはなっているんだけど、壁とかはなくて禁煙エリアと喫煙エリアに分かれているだけ。神奈川は他県に比べると飲食店の分煙規制が厳しいので、しっかり分煙している店が多く、カフェでこのスタイルなのは割と珍しいといえます。

で。ノリノリで作業をしていたら、あるお客さんが入ってきて店員さんに怒鳴りはじめた。

どうやら、カフェなのに壁で仕切った分煙にしていないとは何事だ、ということで怒っているようだ。

店員さんは平謝りしながら、当店はこういう作りになってしまっているので、「喫煙席から一番離れているところの席をご用意するのでは如何でしょうか」といった対応をしていた。ちゃんと丁寧に対応していて偉いなあ。

しかし、そのお客さんの怒りは収まらず「こんなの分煙じゃねーだろーがよ!!」と怒鳴り散らしている。

こうなってしまうと店員さんにできることはなく、ただただ「申し訳ございません」と謝るしかできない。

お客さんはひとしきり怒鳴り散らすと、「もういいよ」と言ってお店から出ていってしまった。
店員さんは悲しそうな顔をしていて、僕はとりあえず追加でチーズケーキを頼んだ。関係はないけど。

席について注文した後ならまだしも、入店時に完全分煙ではないことに気がついたのだし「そうなんだ。じゃあ悪いけど他所にいくよ」とお客さんが店を選べばいいだけだと思うけど、そのお客さんは結構な長い時間を怒鳴り散らしていた。怒鳴っても完全分煙にできるわけでもないんだけどね…。

これツイッターとかで「理不尽なクレーマー」として叩かれそうな話だなーなんて思いながら見ておりました。

もちろん僕もお客さんは理不尽だとは思う(笑)
その人なりの事情があるにせよ怒鳴っても壁ができるわけでもないから他を探した方がいいだろうし、店員さんが謝っても許さないのはどうかとは思った。

それでも僕が思うのは、悪しざまにそのお客さんをクレーマー氏ね的に叩くのは止めておいた方がいいんじゃないかなってこと。
こういうので「誰が悪いか」をいちいち決定しようとしなくてもいいと思うんだ。

これは僕が前職の小売だったころからよく言っていたんですけど、人間はいかなる理由であれ責められたり自分の正しさを揺さぶられると、心理的に自分を守るために反発する気持ちが発生してしまいがち。このカフェの店員さんがどう思ったかは知らないけど。

僕としては、心理的な防御反応をコントロール下に置くことって大切なのかなあと思っていて「あの人にとっては怒るほど重要なことだったのだろうなあ」と思っておけば、こちらから反発して相手の悪いところを叩き返すようなこともなくいられるのかなと。そして耐えるのではなく受け流せるのかなと。

そういや前も似たようなことかいたけどもね。

[blogcard url="http://fujii-yuji.net/2015/02/post-227.html"] [/blogcard]

社会にはこういう人も一定層いるから自分のお店やサービスにどのくらい影響するのかなあとちゃんと考えた上で、こっちが反発するメリットなさそうなら、「対応はしてあげられないけど、あの人にとっては怒るほど重要なことだったのだろうなあ」というように受け流すことができたらいいなと思うんです。理不尽なのを耐えるのとは違うんだけど、わかってもらえるかな。

完全分煙じゃないくらいで怒ることもないけど、キレたお客さんを叩く必要もないわけで。
反撃したところで相手が怒らない・キレないようになるわけはなくて、一定数は感情的になる人はいるわけじゃないですか。

その感情をぶつけられることは困ったものだけど、こちらも感情に任せて反発する必要はないし、冷静さを失ってしまう必要ってないよなーと思うわけです。
ましてや当事者じゃない人が「こうあるべき」を口にするのであれば、相手を叩いて自分の溜飲を下げるために口にするのではなく、ちゃんと社会に良い影響を与えられる場合だけに留めるべきかなと。

完全分煙じゃないくらいでキレちゃう人はアレだけれども、もしそれを口実に叩き返すようなことになれば、自分の怒りの感情をコントロールにしくくなる。理不尽っぽく責められた時にこそ(反撃がメリットを生み出さないなら、だけど)反撃をしない姿勢が自分の身を守るんだと。僕はそう思います。

ここらへんの「当事者じゃない場合の正義の振るい方」については、また改めて書きたいと思います。

オチは特にないけど、このカフェはたまたま完全分煙じゃなかったけど、神奈川県は完全分煙の店が多いです。それに慣れちゃうと都内のカフェで隣の席の人が普通にタバコ吸っててビックリすることあるくらい。タバコが苦手な人は受動喫煙防止条例のある神奈川県に住んだらいいと思いましたまる

自動運転車が当たり前になったら、バイク(モーターサイクルの方)はどうなっちゃうの?と質問されたので考えてみた。

僕はいまの会社を作る前はバイク業界にいました。
自転車じゃなくてモーターサイクルの方。

で、先日に前職のころからのお付き合いの方と会ったときに「フジイさんに聞きたいんだけど、自動運転車が当たり前になったらバイク(モーターサイクルの方)はどうなっちゃうと思います?」と質問されました。
これ、素晴らしい問題提起だなーと思うので、これについてちょっと考えてみたいと思います。

ちなみにモーターサイクルの方って書くの面倒だから本稿におけるバイクは自転車ではなくモーターサイクルのことだと思って読んでください。

さて。
もしも本当に完全自動運転(レベル4)の自動運転が当たり前になる世界が来るなら――本当にそれが来るなら、だけど――どう考えても自動運転車とバイクが共存ができるとは思えない。

わざわざ自動車(四輪)ではなくバイクに乗るのは、バイクならではの操作感・乗り心地を楽しむために乗っている。
バイクを自動運転化した場合は、乗る楽しみもない異常に不便な乗り物ができあがってしまうから、完全自動運転(レベル4)のバイクを作る理由はない。

というわけで、完全自動運転(レベル4)のクルマが普通になったら、マニュアル操作のバイクは交通社会で邪魔者・排除されるべきものになる可能性が高いのではないかという話があります。自動運転車側から見たら邪魔なノイズになりますからね。

なので、「自動運転車が当たり前になったらバイクどうなっちゃうと思います?」という質問は素晴らしい問題提起だなと思ったわけです。意外とここらへん語っている人は少ないし。

とはいえ。

とはいえ、ですよ。

前提が違うと話にならないので説明するけれど、これは高速道路だけではなく一般道も含めて完全自動運転(レベル4)のクルマばかりになった場合を想定しての話なんですね。

本当に完全自動運転(レベル4)の自動運転が当たり前になる世界って来るのかな。
いや、そりゃいずれはそうなるんだろうけど、僕が生きてる間にそれ来るのかなーという風に疑問に思っています。

なんか自動運転の話って5年~10年レベルで一般道も含めて完全自動運転(レベル4)のクルマばかりになるかのように語られていたりしませんかね?

実際はそんな(レベル4の完全自動運転ばかりになる)状態になるのは何年後なんだろう。
ある自動運転の記事によれば80年後くらいとあります。

80年もかかるかどうかわからないけど、僕はの感覚でも二十年以上はかかるだろうなあと思ってるし、もしかしたら僕が生きてる間にそんな世界は来ないかもと思っている。

これは機械的な技術の問題ではなくて、人間社会がどのように受け入れていくかって話。

ドライバーが主体で、機械が補助的な自動運転ができる「レベル2」だと、どうしても高速道路などに限定した機能となる。

これから期待されているのが自動運転が主、人間が一部を補助する「レベル3」。 完全自動運転のレベル4はまだ遠い…

日本政府や各メーカーは2020年までに高速道路に限定しないレベル3自動運転車の実用化を目標としているんだけど、あと3年で法整備とか、倫理まわりとか、一般道での安全性の確保とか間に合うのかしらね…。

正直なところ高速道路での実用化ならともかく、一般道での実用化とか間に合う気はしないんだけど、仮に間に合ったとして、人間が一部を補助する「レベル3」の場合は緊急時やシステムの限界時にはドライバーのマニュアルに切り替わるので自動運転中でもハンドルを握って前を見ていないといけなくて、事故時の責任は従来の車と同じようにドライバーとなる(ということになっている)。

あと、2020年時点のレベル3だと人間がマニュアル操作しないといけない状況も多いと思いますんで、内容的にも夢のように語られている「自動運転」とは違う感じになるんじゃないかな。

一般道の渋滞中とかに自動運転になれば嬉しいけど、緊急時はマニュアル操作が必要だからハンドルから手を離せない的なものなら、渋滞中でもずっとハンドルにぎって周囲を気にしていないといけないわけで、自動運転に任せることはできないんだろうしなあ。

この時点では、バイクが邪魔とか言う以前に「自動運転車って邪魔」という感じになるんじゃないですかね。

実態として割と広めの40km/h制限の道路を40km/hで走行しているクルマはあまりいないわけで、自動運転車が法定速度で走ってたら邪魔になるだろうし…。そういうわけで2020年時点に本当に一般道走れるのかは疑問であります。技術的にじゃなく、交通社会にフィットさせられるのか問題をあと数年で解決できるのか的な意味で。

限定的な台数を限定的なエリアで走らせるくらいはできるかもしれないけど。

で、自動運転車が多数になってきたら「マニュアル運転車って邪魔だな」ってなるタイミングが来るんだろうけど、そんな簡単にリプレイスされないんだよね。

自動運転車でもエコカー減税みたいなスクラップインセンティブ(国が行う古い自動車の廃車から新車に移行させるための優遇策)を行うんだろうけど、まあ過去の例なんかからして古い車の税金上げることはできても禁止はなかなかできない。10年じゃ入れ替えなんて不可能だろうなあという気がします。

もしかしたら、スマホガラケーを駆逐したような速度で入れ替えが進む可能性もゼロではないけれど、自動車の場合はなかなかそうもいかないのではないでしょうか。

さすがに2040年くらいになったらレベル4の完全自動運転ばかりになっていて欲しいという気はしますが、さすがにそんな先のことって誰にも分からんですよね。
国交省が2016年現在走っている車を20年ちょいで禁止するとも思えないなーという感覚はありますが。

自動運転が爆発的に普及して、マイノリティ化したマニュアル運転車やバイクとの事故が社会問題にでもなれば、それらの公道走行を禁止する法律ができるかもしれませんが、2050年くらいまでかかるのかな。わからんけど。

そもそも、そのころのバイクメーカーって何を作ってるんでしょうね。
実はこっちの方が問題なんじゃないか。想像つかないし。

いかに僕のSNS投稿がキモいかを説明された時の話

うちの会社のことで重要なリリースがあったばかりだけど、今日はまだそれは置いておいて個人ブログとしては平常運転させていただきます。

この件は、ちょっと落ち着いてから書こうと思うので少しお待ちいただき、平常通りのフジイユウジ::ドットネット(何)をお楽しみください。

さて。
僕のソーシャルメディアでの投稿を見ている方ならご存知だと思いますが、投稿の結構な割合がニュースや話題のブログ記事のリンクと共に一言感想を書く、みたいなものが多い。

例えばこんな。

もしくは、こんなのとか。

で、僕が以前サラリーマンだった時は非ITな会社だったわけですけども、その時からの繋がってる人に言われたことがあるんですね。

「フジイのFacebookの投稿ってすごくキモいよね。いちいちニュースとか評論してて」

いちいちニュースとか評論していて、すごくキモい。
いちいちニュースとか評論していて、すごくキモい(二回)。

がーん。割とショックを受けました。

更には「普通の人はそんなことしないぞ」と言われ、いかに僕がキモいかを説明されたりしたわけですが。
確かにネット生活どっぷりじゃない人って、あんまりニュースとか話題のネタを共有したり評論しまくったりしてないですよね。言われてみるとキモいかもしれないな………キモいと言われてもやめないけどさ。

僕は寝てる時以外はずっとネットに張り付いてるネット廃人だし、その文化の差みたいなものを異質と捉える人がいても仕方ないなとも思うわけですけども。
しかしながらお恥ずかしながら言われるまで気がつかんかったわ。

この件で僕が興味深く面白いなと思ったのは、僕たちの普通は彼にとって普通じゃなくて「キモい」のレベルにあるってこと。

例えば新海誠の作品全般をキモいと感じても「君の名は。」だけは楽しく観られたとか、そういうことってありますよね(※僕のことではなく、そういう人もいよねって例え話ですからね)。

つまり、そういう「キモさを感じるかどうかの閾値」みたいなものがあるわけじゃないですか。
もちろん人それぞれですけど、キモさって違和感と嫌悪感の中間くらいの感情だと思うんですけど、その人の普通的なるものとの乖離がどれくらい離れていれば発生するのかなあというのが気になります。

嫌悪感とかキモさ、違和感っていうのは原始的な防衛反応だから、異質な者・異物を感知するためにあるわけですよね。
自分の常識からハズれている。つまり自分の文化圏にない行動で、かつ予想すらしていなかった行動あたりが閾値なのかな。いや専門家じゃないし雑な考察だからハズレてるかもしれないけど。

例えば、政治の話を0.01mmも考えない人からしてみると、政治や社会情勢についてあれこれ議論している人はキモさを感じるんだと思います。人によるし、物事によるんだろうけども。ある程度の偏りというか傾向的なものはあるだろうって話として。

なんでこんなことを書くかというと、自分がキモさや嫌悪を感じてしまうときは何故なのか(その違和感に正当性はあるのか)とか、他人に過度で不要な嫌悪感を与えてしまったときに何故なのかを考えたいから。

なんだけども、そもそもこういう考察してること自体をキモいと感じる人は結構いそうだな(笑)。
微妙なオチがついたところで寝ます。会社や事業の話はまた落ち着いた時にでも書きますんでお楽しみに。ではでは。

パン屋襲撃的ななにか、あるいは刺激的なものと地味に美味しいものについてのあれこれ。

今日は思い立ってポエム的な雑文を投下します(独り言的なものなので読んで得られるものはないです)。
唐突かつ、少し前のことなんだけど、バンを売ろうと思っていたときのことを書く。

その当時の僕はパンを売りたくて、パン屋さんと相談をしていた。
どうしてパンを売りたくなったか覚えていないけれど、パンを売りたいと思っていた。

最初の打ち合わせで僕は(その当時)通販で売れているパンを見せたり、東京で話題の行列のできるパン屋さんの情報を見せたりして「いま売れているパンって、こういうのなんですけどどう思いますか」と伝えてみたりしていた。

パン屋さんがそういう売れそうなパンを作ってくれたらいいなと考えていたからだ。なんとなく無理だろうなとも思っていたけれど。

パン屋さんは「なるほどね」と僕に言った。
その当時――いまもそうかもしれないけど――、売れていたパンは「ひとくち目が美味しいパン」だ。

僕の理解が間違っているかもしれないけれど、彼は僕に「ひとくち目」が美味しくて脳に刺激を与えるタイプのパンだね、みたいなことを言っていた、気がする。

そして、俺はそういうパンは焼いてないんだよねということだった。

「これは俺には作れないかもなあ。そういう方向性でパン焼いてないんだよね…」と割と真面目な顔つきで言った。そういうパンを俺が焼いても売れないんじゃないかな、みたいなことをそえて。

このままだと売れそうなパンを焼いてもらえそうにないけれど、仕方がないのでその日は「また打ち合わせしましょうね」と言って切り上げることにした。

帰り際、パン屋さんは僕に沢山のパンを持たせてくれた。
「持って帰って食ってみてよ」と。
焼いたらサクサクする食パンとか、ふわっとしてる食パンとか、それから名前のわからない丸いパンとか。

家に帰ってしばらくしてから僕は大量にあるパンを何枚かスライスしてトースターにほおりこんだ。
最初たべたときの感想は「普通に美味しい」だ。

普通に美味しい、つまり美味しいけれどわざわざ5駅離れたところに買いにいったり、予約して買うするほどの感じではない。そういう普通に美味しい、だった。

パンは大量にあったので、もう少し食べて減らしておくかとパンを更に数枚ほどスライスして焼いた。
二回目も普通に美味しかった――いや、正確に言えば一回目より美味しかった。

「あれ、これけっこう美味しいな…」

三回目をトースターにほおりこんだ時に食べ過ぎかなとは思ったが、不思議な美味しさに取り憑かれはじめていた僕は焼き上がりを待って、今度は焼いていないパンと、焼いたパンと、ジャムをぬったパンと、マーガリンをぬったパンを食べた。どれも美味しかった。そして不思議なことに食べても食べても胃が重くない。

二回目の打ち合わせで、パン屋さんはにこにこ笑いながら言った。
「ああ、美味しかった?俺の焼いたパンはすっげえ地味だけど、毎日食べても飽きないように作ってるからね。」

そんなことが可能なんですかと聞くと、彼は「小麦粉は大して高いのじゃない」と言った。
微妙な材料のチューニングで飽きないパンを作っているんだという。

「ひとくち目が美味しいパンって重いんだよ。食べてて疲れる。俺の焼いたのはジャムとかマーガリンぬっても味が濃くなりすぎないし、毎日食べてても疲れないパンをつくってるんだ。俺が焼いたパン、食べてて疲れないでしょ?」とパン屋さんは言った。

なるほど。刺激的ではない美味しさを地味に表現したパンというわけだ。

話せば長くなりすぎるからこれくらいにしておくけけれど、結局のところ僕がパンを売ることはなかった。

パンを売らなかったのは「売れるパン」を焼けなかったからではなくて、彼の絶妙なチューニングを活かして「これは売れるぞ」というものを開発はできたのだけれど、別の理由で販売開始にまで漕ぎ着けることはできなかったから。それは今となってはどうでもいいことだけど。

これ以来、僕は食品だけではなく色々なもの(例えばコンテンツだとか、例えば仕事だとか)でも「ひと口目が美味しい刺激的なもの」と「疲れない地味に美味しいもの」についてかなり意識するようになった。意識をしていないと「疲れない地味に美味しいもの」を見逃したり、過小に評価してしまうのではないかと考えるようになったからだ。

もちろん、どちらが良いとかそういう話ではなく「ひと口目が美味しい刺激的なもの」も素敵だと思うし大好きだ。ただ、それに比べると「疲れない地味に美味しいもの」を見つけることは結構難しい。
そのパン屋さんのパンみたいに身近にあるのに見過ごしてしまいがちになる。

脂や塩の効いたもの、ガツン効いた調味料、派手で見栄えのするもの。そういうふうなものは簡単に沢山見つかる。
食料品もそうでないものも刺激的で美味しいもの・刺激的で面白いものは見つけやすいからだ。

そういうものばかりにならないように「疲れない地味に美味しいもの」をちゃんと身の回りに置いておきたいと思う。
食品だけではなく色々なもの(例えばコンテンツだとか、例えば仕事だとか)でも。